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木漏れ日の空間にようこそ !!

木漏れ日の空間にようこそ !!

●○●掲載すみ原稿「保管」(D)

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【神の擬人化は神の敬愛を呼び込む】 5
神は敬愛しなくはいけないと云う思想は解ります。しかし、私は反対です。神の敬愛は神の擬人かによるところが大きいからです。勿論、神にもいろいろな概念がありますので一概に敬愛を否定することは戒めなくてはいけません。私が記してきた神に象徴される高級心霊の場合は、節度ある敬愛は必要になります。理由は擬人化されて神だからです。他方、悪魔は擬人化されています。擬人化を超えた悪魔など存在しません。(人間の心中に創れない)根拠を考えてみるとします。「悪魔は敬愛されたがりますか?それとも軽蔑されたがりますか?」

悪魔が敬愛されたがるとしたら、神と悪魔はどこで見分けるのですか?(悪魔は巧妙です)神と悪魔の区別の鍵は言葉や外観を重んじるものは神ではないと観て差し支えありません。特に敬愛を自分に要求する者は悪魔と観てよいか?と思います。以上の質疑神も悪魔も人間の心の中で生まれた概念であることが解ります。擬人化されていない悪魔がいるとすれば、それは悪魔ではなく神の怒りになります。(悪魔は神の化身とする所以ですが、これも擬人化です)私は神の概念を人知で推し存在であると定義しました。

「神とは調和ルをもたらそうとする意志である」と定義することもできます。地球の自然環境は自然の状態では、調和をもたらそうとする意志が在るように観えます。二つの定義に矛盾はありません。神を「調和をもたらそうとする意志」と定義しても人知推し量れない存在であることに間違いはないからです。意志を認めなければ神は存在しないことになります。以上から、神の存在とはどのような概念を指すか?ご理解いただけると思います。人間は神を信じたがりますが、(無神論者でも最後は信じ無くてはならなくなる)以上はテクニックではありません。

しかし、テクニックにすり替えることも可能ですので、良心に問い合わせて言行することが肝要です。宗教はテクニックの問題ではありません。ランクを決めるなら教義内容の優劣であり、どれが支持されるか?の問題です。 何が支持されるかを問う行為は、(念頭に於いて言行する行為)神に象徴される高級心霊を仰いでいると云えます。従って一定の敬愛は必要になりますが、むやみな敬愛は、悪魔に付け込まれますので気をつけなくてはいけないのです。(敬愛を好むのは特定の他人ばかりではりません。自分の心の中にも存在する概念です)2012-0124⇔「神の擬人化が神の敬愛を呼んでいる」より


 【結果は神の回答である】 4
キリスト教については、「ネジ山の教えを考慮すれば」イエスは一概に間違っていたと断言できません。(間違ったことを教えたとは言えない)あえて断言すれば教える相手が不適当だったと云うしかありません。ジョン、アダムススキー?の著作「金星旅行?」の金星人の長老の教説は参考になりますか?私は拾い読みしただけですが、教説の内容は無く雰囲気などの状況が書かれていました。同じ技(はじめは興味本位で関心を惹く)が、竹下にもありまか?あれば彼も「ただ者ではない」と言えます。物語の進展が横道に流されてはいいませんが、目的に不信感を感じるモノがあると言えます。私の地球儀の例で説明すれば、地球儀上の地理の変化は変化ではな く、他人のモノと同じなら、以前、私が記憶していた地理(地球儀に描かれていたモノ)錯覚としなくてはならないのです。

地球儀に関しては、他人の例を観なくては何とも言えないと思っています。他人の例が全て同じでも、測量しなくては断定できないと思っています。(超能力地球儀上の絵図だけ変えるいたずらもあり得る)超能力に関しては、人間が追及すればそれも過程に過ぎません。真理は無限の中にあると言えます。したがって感性で判断することも必要になります。感性で判断すれば、はじめに霊的関心で思想に呼び込むアダムススキーの著書は現在只今回想すれば、霊的絶対強権思想に行き着くと思います。人間は神の回答である結果を知ることはできません。理由は無限の中あって有権の存在としてに生きているからです。(器の中に生きている者が器の形を知ることは出来ない)結果は神のであったも指導ではありません。神の指導は動機に在ると捉ることができます。但し、動機は指示ではありません。神の指導はあくまでも自主的な言行です。(2013/06/25⇔記)
 




  【宗教の反省は良心の働きを基準にしたものでなくてはいけない】 3
道徳を基準とした反省は、所詮道徳の教えですおしえです。私は宗教は道徳も含まれるものとしています。例えば、宗教が立方体とすれば、道徳は六つある面の内の一つと考えていただけば解りやすいと思います。ですから宗教的な生き方を志す者は、道徳の反省は必要と思っています。宗教の反省は良心の働きを基準にしなくてはいけないのです。しかし、良心の働きは固定的ではありません。心境によって異なった面がでてきます。宗教は何を基準にして反省するか?に答えれば心の働き方と言えます。宗教を行っていれば道徳は守らなくてもよいのではなく、歯止めとして道徳は守らなくてはいけないのです。

例えば、正当化を行っていないか?(正当化を行ってよいか?悪いか?⇔良心に訊くより仕方がない)すり替えてはいないか?流されてはいないか?原点は何か?目的は何か?(道徳のように普遍的なものではなく個人により全てことなります⇔良心を基準にするしかありません)等です。打算計算もありますが、これも目的や想いによって異なります。人殺しの計算は、どのような打算から生れるのか?(検察は大丈夫か?)政治家や実業家の打算計算は、個人によって全て内容が違うはずです。どのような打算計算を描いているか?(想っているか?)は、個人により全て異なります。

愛を基準とした想いであるか?どうか?が大切であると唱えることは易しいですが、愛とは何か?を正確に定義できる人はいないと思います。愛の名の元に行われた結果が不調和な関係になった。良からぬ現象が起きたと云う事態は少なからずあります。(宗教がらみの事件)又、故意に愛の名を使った悪行も無かったとは断言できません。やはり良心の働きを基準にするより仕方がないのです。(本当は愛が基準になることですが、愛か?どうか?ことさらに想%




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